創業について

物心ついた頃、母に「うちの旅館は100年以上続いとんよ」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。「前の通りは大名行列でお殿様が通りょうたんよ」「伊部に電話が通った頃、近所の人がうちに電話を借りに来たり、電話が掛かってきたら呼びに行ってあげたりしょうたんよ」など、口伝によって古いおばあちゃん(2代目女将)の話を聞いていたものの、創業にまつわる話は家族の誰に聞いても分かりませんでした。古いおばあちゃんは夫と一人娘を同時期に亡くしたショックで昔の写真や資料を全て処分してしまっており、今の大女将もそういった類の話は聞いたことがなかったそうです。

(玄関にて、二代目主人)

(唯一残っていた昔のポストカード)


一代30年とするなら、創業150年くらいになるのかなと思っていたものの半信半疑でした。

そんな時ある方から「創業について調べてみてもいいですか?」と声をかけていただき、私共としては願ってもないお申し出でお願いする運びとなりました。ぜひお読みくださいませ。
大変な時間と労力を割いてここまで調べていただいた松永弾正様には、改めて家族一同心より感謝申し上げます。まだ明らかにならないこともありますが当館はその時代その時代に色々なお客様にご贔屓にしていただいており、旅館の創業とか歴史とか…よく分からないけど家族でとにかく一生懸命旅館を守ってきた!という感じが、うちらしいなと思っております。

いつも当館をご贔屓にしていただき、本当にありがとうございます。今後とも当館に親しみをお持ちいただけましたら幸いでございます。引き続き変わらぬお引き立てのほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2023年3月吉日

常盤旅館 6代目若女将

【タイトル】常盤旅館を遡ってみる

【文責】松永弾正(本屋旅行人)

はじめに

 若女将のまえがきでは「創業について調べてみてもいいですか?」とオブラートに包んでいただいたのだが、この話は「本当に100年以上やっているのですか?」という大変不躾な質問から始まったと記憶している。このような質問をして、よくお叱りを受けなかったものだと今では思う。質問の仕方は気をつけなければならない、と自らへの戒めとしてここに書き残しておく。

本稿の筆者は国内各地の書店を自分の足で巡り、書店史(個人的には「史」とは言い難いものなので「書店誌」と勝手に命名する)を調べて連載などに書いている。これは業としてやっているわけではなく、趣味でやっている。今回は旅館の歴史を紐解いていくということで、全く違うジャンルを調べることになった。至らぬ点が多々あるかもしれない。予めご容赦いただければと思う。

 本稿には「可能な限り出版物で遡る」という条件をつけている。資料を確認し(確認のために現地に赴く)、まとめるというプロセスが重要だと勝手に考えているためである。また、聞き書きに頼る場合、聞いたことに対して資料による裏付けが必要なことが多々ある。そしてオーラル・ヒストリーを中心として何かを書く力量が筆者にはないというのも理由である(そもそも史学について専門的なトレーニングを受けていない)。

調査に際し、常盤旅館やゑびすや荒木旅館(以降「荒木旅館」と記す)など、伊部や片上の皆様に多大なご助力を賜った。また、岡山県立図書館に依頼したレファレンスを利用し、調査を実施した。岡山県立図書館での現地調査も行い、可能な限り結果は本稿へ反映している。関係各位に対し、この場を借りて感謝申し上げる。

本稿では、旧字で書かれているものについて、現在の表記に直している箇所があることをご容赦いただきたい。

伊部に関する資料について

 本題に入る前に、岡山県や伊部について(本稿で使用できそうな資料)、現時点でどのくらいの資料を把握しているか、ならびに分かる範囲での資料の収蔵状況について記す。

現在の自治体である備前市が発行している郷土資料は、『備前市二十年の歩み』(備前市総務部市史編さん室)がある。この資料は1991年の刊行である。こちらは国会図書館(東京・京都)と東京・神奈川・兵庫・岡山の都府県立図書館へ収蔵されている。

伊部を含め、備前市になる前の和気郡については『和気郡史』(和気郡史編纂委員会)があり、こちらは国会図書館に収蔵(一部が個人送信対象のデジタル資料化)、東京・大阪・岡山・広島・香川の都府県立図書館にも収蔵されている。全8巻の大著であるが、一読するのもよいかもしれない。

岡山県全体の通史としては、『岡山県史』(岡山県史編纂委員会)がある。こちらは資料編を含めて全30巻あるため、全部読むよりも岡山県立図書館の郷土デジタルネットワークで検索し、目次を確認してから読むことをおすすめする。

伊部にクローズアップすると、備前市になる以前の伊部町について『伊部町誌』という資料が存在する。『伊部町誌』は1951年に出版されたものと、同名で1913年に出版されたものがある。前者は岡山県立図書館に収蔵されているが、後者については片上の備前市立図書館に閉架で収蔵されている。

前者について、編集者として日幡直之という人物の名前が奥付に記載されている。「町役場吏員」の項に書記としても名前が確認できたので、伊部町の役人であったことは間違いない。「備前焼略史」の項は桂又三郎が寄稿している。一方後者は、備前市立図書館にて現物(複写資料)を確認したところ、著書は日幡今太郎と日幡義景という人物であることがわかった。前者の編集者である日幡直之とは関係ある人物かもしれない。

他には吉崎一弘、吉崎志保子の『ふるさとの想い出写真集 備前 明治大正昭和』(国書刊行会)がある。こちらは備前についての写真が豊富な書籍である。伊部よりも片上の方が掲載割合は多い。A4判なので非常に大きいが、1冊置いておくのもよいかもしれない。本書は2020年に復刊されているため、入手難易度はそこまで高くない。8800円かかるので、財布との相談が必要だが。

吉崎一弘、吉崎志保子の両名は、『和気郡史 資料編 下巻』(和気郡史刊行会)の「備前社軍隊」、「昭和初期の和気郡耐火煉瓦業界の歩み」の執筆者に確認できる。

 その他、地図資料についても記載しておく。戦前期の伊部が書かれている地図は、「五万分一地形図 和気」(大日本帝国陸地測量部)というものが1912年に発行されている。こちらは岡山県立図書館に収蔵されている。貴重資料であるため閲覧には少々手間がかかるが、申請すれば確認が可能な資料である。

いつ頃から存在していたか?

 長い長い前段を書き終えたので、いよいよ本題に入る。本件調査では、自治体発行の資料やその他資料を確認し、最も古い年次のものを掘り起こしていくやり方を採った。

先に結論を述べる。資料の記述を信じれば1918年だが、同時代資料で確認した場合は1920年まで常盤旅館の存在が確認できた。以降は調査内容から、この結論に至った過程を記す。

 まず、各種郷土資料を確認したところ、常盤旅館に関する記述は見つからなかった。自治体発行の資料(『和気郡史』など)は、地域の歴史を扱うので、産業について記述があるとしても、その地域の特色ある産業(伊部の場合は窯業であろう)を取り上げる場合がある。旅館業については記述が割かれる場合はあまりないのかもしれない。

次に、戦後の発行であるが、商工名鑑を確認した。岡山県立図書館へのレファレンスにより、『岡山県商工名鑑』(昭和35年版)、『備前商工名鑑』(昭和53年版、平成15年版)に常盤旅館の記述があることがわかったので、現地に赴き資料を閲覧した。このうち『岡山県商工名鑑 昭和35年版』(岡山県商工会議所連合会)に「創立(創業)年:大7」の記述を確認した。

この資料を信じれば創業は1918(大正7)年である。しかし戦後発行の資料であり、かつ創業年についての根拠が確認できない。そのため「1918年まで遡れる」と結論づけるのは早計であると判断し、他の資料も確認することにした。なお、この資料は国会図書館の個人送信対象資料である。利用者登録をしている方は「岡山県商工名鑑 1960年版」と検索すれば閲覧ができる。

旅館業であるため、戦前に発行された地域別の旅館一覧があるか確認することに。次世代デジタルライブラリーに全国同盟旅館協会が発行した『全国旅館名簿』(神田屋商店出版部)を確認。閲覧したところ、創立年次等の記載はないが、奥付を見ると、1926(大正15)年発行であることがわかる。

創業年次は書かれていないが書籍の奥付から書かれた時期が確認できるため、これにより1926年までは遡れることが確定した。次世代デジタルライブラリーにおいて、『全国旅館名簿』はこの他1941年版が存在する。国会図書館の個人送信対象資料には1934年版が存在するので、興味のある方はそれぞれ確認していただければと思う。

 商工名鑑や『全国旅館名簿』を確認した時点では、1926年まで遡れることは確定した。しかしこれでは100年遡れていない。もう少し遡れるものはないかと考えていた時、電話帳を用いればよいことを思いついた。この電話帳を利用する方法は、山形の書店を巡っていた時に古書店の店主から聞いた「(古書組合非加盟店舗や『全国古本屋地図』(日本古書通信社)や『古書店地図帖』(図書新聞)に掲載されていない)古本屋の探し方」として電話帳を挙げていた。これを思い出し、ここで使ってみることにした。国会図書館のリサーチ・ナビにも電話帳の項目があるため、調査方法として活用はできそうだ。

まず、国会図書館デジタルコレクションにて『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』(人事興信所)を確認した。「片上之部」に「三二番」の電話番号(現在の電話番号の最後2桁が32なのはこれが由来か?)で常盤旅館の存在を確認した。この資料からは、1923(大正12)年まで遡れることができた。

岡山県立図書館へ「五万分一地形図 和気」(大日本帝国陸地測量部)を確認しに行った時、ちょうど対応してくださった方が筆者の依頼したレファレンスをこの時点で3点担当していた方であったため、地図のついでに収蔵されている大正期の電話帳を出していただいた。確認したのは『岡山県電話番号簿 大正五年七月一日改』(西部逓信局)と『岡山県特設電話番号簿』の1921(大正10)年から1926(大正15)年版(広島逓信局)。このうち、『岡山県特設電話番号簿』で常盤旅館の電話番号が確認できた。これで1921年まで遡ることができ、100年は遡ることができた。『岡山県電話番号簿 大正五年七月一日改』にはそもそも片上郵便局管内の電話番号すべて確認できなかったので、この年代では存在確認ができなかった。

なお、片上・伊部の電話は、木下耕二『備前の近代歴史遺産』の「荒木旅館の電話室」によると、1919(大正8)年に架設されたようだ。どうやらゑびすや荒木旅館には、当時の電話帳が保存されているようで、『備前の近代歴史遺産』に木の電話帳の画像が掲載されている。

「荒木旅館の電話室」にて木下が引用した『森島日記』とは、片上町の森島吾一郎という人物が書いたものである。『片上町史』(片上町史編纂委員會)によると、「明治二十九年七月廿一日より書き始め、昭和廿四年六月二十一日まで五十四年間、一日も怠らず死の二ヶ月前まで書き続けて」いたとのことだ。この『森島日記』であるが、『片上町史』に「片上五十年史」として掲載されている。

また、片上・伊部の電話が完成したのは、「片上五十年史」によれば「大正九年十一月」、つまり1920年の11月とのことだ。片上・伊部の電話架設が1919年と先述したが、引用している『森島日記』の該当項(「大正八年十一月一六日」)に「本町の年来希望せし特定電話架設の儀、愈々本年度中施工せらるる事になり」とあるが、個人的には「本年度中」とあるため、具体的な架設開始時期がわからず、1919年に架設、とするのは難しいのではないか、と考えてしまう。

 その他、地図資料である「五万分一地形図 和気」(大日本帝国陸地測量部)を確認したが、こちらは街区の詳細は載っていなかったため、本件調査には活用できなかった。地図資料について、岡山県立図書館のレファレンス担当の方に聞いてみると「商業空間の戦前地図については岡山市のものはあるが、備前地区のものは収蔵していない。」とのこと。また、住宅地図は1985年以降のもののみ収蔵されていることもわかった。地図の発行についても地域の偏りがあるという知見を得ることができた。

また、他にも『岡山県商工人名録』(共益社)という資料も出していただき、確認した。これは1916(大正5)年に発行された資料で、岡山県内で商売をしていた人物が掲載されている。この資料を確認すると、旅館の項目には常盤旅館の記載がなかった。旅館の項にあったのは觀月楼という旅館であった(『岡山県商工名鑑 昭和39年版』の観月の創業年「大5」はこれが根拠か?)。この觀月楼(観月)も『岡山県特設電話番号簿』に掲載されており、昔からあった旅館であることは間違いない。

現地調査の後、岡山県立図書館のOPACにて「岡山県 電話番号簿」で検索したところ、1921(大正10)年に発行された『岡山県特設電話番号簿 大正九年九月一日改』があることがわかった。これは現地調査で出していただいた記憶がない資料のため、再度レファレンスを依頼したところ、「時岡太郎 常盤舘」の記述があったとの返答を得た。発行が1921年だが、1920年9月時点での電話番号簿である。再度現地に赴き、この目で常盤旅館の記載を確認した。つまり、1920(大正9)年まで遡ることができた。

しかしながら人名が「時岡太平」ではなく「時岡太郎」となっていたのは気になるところ。この件を常盤旅館へ報告した際に「時岡太郎とは何者なのか?」という話が出たのだが、結局は時岡太平の書き間違いだろう、という話になった。昔の電話帳で萩と荻を間違えている資料は見たことがあるのだが、仮に間違いだとした場合、このように間違えることはあるのだろうか、と思ってしまった。

 別の機会に荒木旅館にある電話帳の調査を実施した。荒木旅館の電話帳には「片上町之部」に「四三 竹内酒店」がある。これは『岡山県特設電話番号簿 大正九年九月一日改』には載っておらず、その翌年の『岡山県特設電話番号簿 大正十年七月一日改』より、電話番号43番に「竹内伊三次」が確認でき、「清酒卸小賣幷ニ度量器販賣」とあり、この人物で間違いなさそうだ。しかし、荒木旅館では「片上町之部」に書いてあるが、『岡山県特設電話番号簿 大正十年七月一日改』の「竹内伊三次」は「伊部町」と書かれている。その後の年次の『岡山県特設電話番号簿』を確認すると、「片上町」と書かれていた。

その他、42番の記載が、荒木旅館では「小林柳三」、『岡山県特設電話番号簿 大正九年九月一日改』では、品川白煉瓦株式会社の電話番号となっており、この記述の相違が気になるところだ。『岡山県特設電話番号簿』との相違点があるが、荒木旅館に保存されている電話帳は、1920(大正9)~1921(大正10)年頃のものであると推定している。44番の「岡島活版所」は、『岡山県特設電話番号簿 大正九年九月一日改』と『岡山県特設電話番号簿 大正十年七月一日改』にのみ掲載が確認され、それ以降、44番は三村藻三郎の電話番号となっている。

ちなみに、荒木旅館の電話帳では常盤旅館の記載は「時和旅舘」となっている。

 各種資料から判断すると、最初の方に述べたが、資料の記述を信じれば1918年まで確認できるが、同時代資料で確認した場合は1920年まで存在が確認できた。

おわりに

 たった1行の結論を得るのに非常に遠回りをした気がする。「100年を超える」の文言が間違いでないことを確認することができて正直なところ、ホッとしている。今回調べた内容は、検索したところで出て来ない事項であろう。

伊部の話のため、当初は伊部のみを対象とした調査で事足りるだろうと考えていたが、どうも片上・伊部の両地域で資料を見ていく必要があり、郷土史調査の難しさを実感した。

今回で電話帳での調査に限界が見えたため、今後本件を調査するには山陽日報(山陽新聞の前身)の広告掲載有無を確認することになりそうだ。試しに国会図書館で1918(大正7)年の山陽日報を半年分(上半期)確認したところ、伊部に関する企業(帝国窯業株式会社と伊部土管合資会社)の広告掲載が確認できた。

広告が確認できればその年代に存在することになる。しかし、新聞広告がないからと言って、その年代に存在しなかったと言い切れるわけではないことに注意しなければならない。

新聞広告の調査以外にも見るべき資料があるとは思うが、果たしてどのような資料を確認する必要があるのか、皆目見当がついていないのが実情だ。これ以上掘り進めるためには、一旦横方向(資料間の関連性など)に資料を掘っていき、見当がついたものを縦方向(時間軸)に掘ることが必要になってくる。

2019年より公開された次世代デジタルライブラリー、ならびに2022年以降、一部資料の個人送信が開始され、自宅でも調査ができるようになった。国会図書館デジタルコレクションのおかげで、資料探索が大いに捗った。本稿執筆時点では、国会図書館デジタルコレクションの全文検索対象の資料が増えるなど、今後資料調査の環境がますます改良されていくだろう。

しかしながら郷土関連の調査では、必ずしも資料がデジタル化されているわけではないため、当地の図書館に赴く必要性はしばらくなくなることはないだろう。自宅でもできる調査(国会図書館デジタルコレクションなどの利用)、現地調査とレファレンスを組み合わせて、素人でもここまで調べ物ができる(史料批判に耐えうる内容であるかは一旦別にして)という一例を、本稿で示すことができれば幸いである。

また、これが伊部にまつわる他の話を思い出すきっかけの一つとなることができればと願う次第である。

おまけ

 『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』と『岡山県特設電話番号簿』の片上の項、「四四番」に三村藻三郎という人物の名前があった。これは三村陶景である。

『岡山県特設電話番号簿』を1921年から1926年まで順番に見ていくと、1922年版から『岡山県特設電話番号簿』に名前が掲載され、1926年版でその名前が消えていたことを確認した。

『郷土誌 三石城 146号』(郷土誌三石城編集局)の「備前焼の発展に真摯に寄与した 三村陶景」を参照すると、「彼は大正14年に阪神地区へ転居した」とあった。『岡山県特設電話番号簿』での名前の変遷から見ると、この記述は間違ってなさそうに見える。

また、『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』と『岡山県特設電話番号簿』の三村藻三郎を確認すると、「陶器学校」の記述を確認した。この陶器学校の記述については、団正助という人物が編集した『窯業銘鑑 大正13年度版』(窯業銘鑑出版部)にも確認できる。また、「備前焼の発展に真摯に寄与した 三村陶景」には「大正2年(28歳)に陶器学校を開いて徒弟の育成と技術の研鑽に尽力したが、その学校は大正12年に廃校」という記述があり、陶器学校をやっていたことが確認できる。

その陶器学校については、1919(大正8)年に発行された『会社工場等ニ於ケル実業補習教育施設ノ情況』(文部省実業学校局)に「伊部陶器補習学校」として記載があった。住所を見ると「和氣郡伊部町大字伊部六三九番地」とあり、当時の地番が現在と同じならば、常盤旅館近くにあったと推定できる。この伊部陶器補習学校についても、掘り起こせるなら掘り起こしてみたいが、かなり難易度が高いだろう。レファレンスを依頼したところ、『郷土誌 三石城 146号』や『窯業銘鑑』、『備前陶史』(備前町教育委員会)以外なかなか資料が見つからないという結果であった。

『会社工場等ニ於ケル実業補習教育施設ノ情況』は誰でも閲覧が可能な資料であるため、興味のある方は一度確認するといいかもしれない。

 ちなみに三村陶景が営んだ陶器学校の創立について、「備前焼の発展に真摯に寄与した 三村陶景」では「大正2年」に開いたとある。しかし、別資料である目賀道明という人物が書いた『備前陶史』には「大正元年に伊部陶器学校を創設」とあり、資料によって食い違いが生じている。そして『岡山県史 第11巻 (近代 2)』(岡山県史編纂委員会)では「一九一三年(大正二)には三村陶景が陶器学校を設ける」とある。「備前焼の発展に真摯に寄与した 三村陶景」は2009年に書かれており、1987年発行の『岡山県史 第11巻 (近代 2)』を参考にしたのではないかと思う。こちらについて根拠はない。


なお、『会社工場等ニ於ケル実業補習教育施設ノ情況』にて沿革を確認したが、「沿革大要 別ニ記載スヘキコトナシ」と書かれており、確認が不可能だった。